TQ技術運動人物情報

【今の責任者】TQ事業協会運営部長
筆名・山田 学(まなぶ) 本名・山田 哲(てつ)
ヤマトの声の深みをもとめ、旧かな趣味。
1956年3月 名古屋市中村区に生れる。
1981年3月 東京大学工学部計数工学科中退。
コンピュータと人間の矛盾 (=必然と意志の矛盾) といふ、学問の本質問題に挑みたく、あへて、在野の学者を志した。
生活費は、学習塾教師・小企業経理事務・ソフトウェア開発などにて得た。
1992年8月 TQ技術発明者=実父 (下記) から、TQ技術の継承を開始。
1996年10月 実父の永眠にともなひ、有限会社ナック (名古屋市中村区竹橋町24-17-201) 代表取締役を、継承。
主な活動拠点は、有限会社ナック横浜研究室 (横浜市神奈川区西神奈川1-13-14-307)。同じ住所にて、2020年10月より、TQ中心社も開始。有限会社ナックは、〈TQ処理〉といふ根幹工程を担当する。TQ中心社は、〈TQ展開〉綜合管理のための、個人事業。(いづれ、法人化を予定)
次の日本社会を拓く、事業交流や政治との協同を、志向。ヤマト平民会議と称す。
なほ、TQ技術運動をめぐり、かなり深刻な国際的情報戦を体験させていただいたこともあり、結婚歴はなし。
山田 学は、20歳のころより、ヨガの沖 正弘師に学ぶ。往年の沖ヨガ修道場跡にある『生きている』石 (静岡県三島市)。
1998年秋、早稲田大学にて、山田 学から大槻義彦教授に、ある論文を提出した直後。森野正春氏とともに。
【発明者】
山田俊郎(としを)
1926年11月 名古屋市中村区に生れる。
1944年 愛知県立旧制惟信中学校卒業。
軍需省東京工業試験所高分子化学研究室勤務。
陸軍予科士官学校入校 (61期) 陸軍軍官学校に配属。
1945年8月 シベリア捕虜 (もっとも苛酷な炭鉱作業)。
1948年 岐阜農林専門学校 (現・岐阜大学農学部) 農芸化学科入学。まもなく、同学科応用微生物学教室助手となる (陸軍士官学校に学んだ実力があつたため)。が、同校農産製造科に転入学 (学生として学び直した)。1951年に同校卒業。
1954年 岐阜大学助手を退職。
合資会社彩光社 (カラー写真・シルクスクリーン印刷) を設立し、役員として参加。
1961年 彩光社を日本サーキット工業株式会社 (プリント配線) に改組、代表取締役となる。
1963年 通産省指定東海電子工業団地建設委員長に就任。
1971年 中部経済同友会幹事。
名古屋大学農学部に山下昭治先生を訪ねる。
1972年 イトミミズによる精密実験を実施。その一定の失敗から、TQ技術の原理を発見。
日本サーキット工業株式会社のすべての役職を退任。三菱ガス化学株式会社に持株のすべてを売却。のちのTQ技術となる研究に専念。
1975年 TQ技術の養鰻、水耕栽培などへの応用にめどをつける。
1976年11月 沖縄県名護市に、琉球農水産研究所を設立。
1987年2月 ホテル用高級野菜 (ハーブ) 生産販売部門を、有限会社沖縄グリーンとして独立させる。
1992年11月 TQ技術の新展開のため、名古屋市に有限会社ナックを設立。
1996年10月 長男にあとを託して永眠。
生物が無生物化する現象の研究にも、関与し、また、国際的情報戦にも悩まされて、寿命を縮めた。

沖縄の恩納村 (日本屈指のリゾート地) にて活動してゐた。
このあるビルの一室 (現存) にて、山田俊郎が1972年ごろ、イトミミズによる精密実験を実施し、結果、TQ技術の原理を発見した。
【前史】
戦前の東大にて「開花のしくみ」を研究。
戦後、東大のその研究者ら (五島善秋先生・小島俊爾先生・大橋望東生先生・山下昭治先生の4名) が、名古屋大学農学部に移籍。
1968年 この研究者らが、論文『花成制御物質に関する研究』を発表。
まもなく、「ファイトシン」(開花に関与する物質についての仮称) の正体が、T (Tocopherol α-トコフェロール=ビタミンE) と、Q (Quinone ユビキノン=コエンザイムQ) であることを、発見。
1971年 山田俊郎が合流。

山下昭治先生直筆